1月書評





1月 



 
 



 
 
 
「殺意の演奏」 大谷羊太郎 講談社文庫 (1975/4/15) 00000

 新進気鋭の舞台司会者、細井道夫は、密室と化した自宅にてガス中毒死体として発見された。
 部屋に残る遺書風の暗号日記(黒い手帳)。
 その日記を読む限り、この若手司会者の死は、世間をあっといわせる自殺ショーとも思われるような不可解な最期であった!?

 〜細井道夫氏の遺書抜粋〜
「これ(部屋の隅に沿って置かれたトランプと、黒手帳の記述)は、私が創ったクイズである。
 あなたがたが首をひねっている間、少なくとも私は優越感に浸るのだ」(細井道夫)
 細井道夫は、自らを「クイズ」に仕立て上げることによって、劇的な死を演出する!(う〜ん、この遺書の文学色は高い!)

 彼は、旧式ギルド制に束縛されるのが嫌で、エンターティーメントの領域にて未開発の舞台芸はないものかと考えた結果、舞台にてクイズを出題することに到った男だ。
 さらに、クイズ番組が、テレビ界でも火が点くとまで予告していた先見の明のある男!

 そんな細井が亡くなってしまうのだから、(舞台にて)クイズを出題していたショーの司会者らしき自殺ショー。
 そんな風にも取れないことはない!

 流れ 井戸 愛情 打率 野原……。のように並べられた(死者)細井が世間へと投げかけた謎掛けは、その後、刑事たちを悩ますことになる。
 さらに、トランプの方にも意味が……。(しかも、トランプそのものに、密室の構成と深く関係した物理的な……までもが!≪この発想、何と斬新だと膝を打った!そう、まったく古臭くない、むしろ現在から見ても新しい香りを放つトリックだ!やはり小説の新旧とは、作者の想像力によって決まるものなのかもしれない?)

 その不可思議な死に対し、どうも納得のいかない細井の弟(でアナウンサーの)真二は、その死へと推理のメスを入れようと、奮起する。まさに、論理性高き推理小説!

 しかし、真二によって、容疑者と推理された浅野も、奇怪な姿をさらした状態にて密室死してしまう……。
 果たして、浅野の残した第三の男「大阪の人」とは何者なのか?
 謎は謎を呼び、まるで殺意の演奏の如く、魔性の旋律を奏で始める。

 第16回江戸川乱歩賞を受賞。
 三年連続最終候補の末に到った四度目の快挙作!
 (ちなみに第16回の最終候補作は、山村美紗「京城の死」愛里収「私の虚像」幾瀬勝彬「ベネトナーシュの矢」里生香志「赫の盲点」)

 立身出世を志す若者の武勇伝を軽快かつ都会的に語りかけてくる文体。
 そう、細井道夫の遺書は、頗る挑戦的で、格好よすぎるほどドラマチックだ。

 詩人のような気障な言い回しにて、己の死を美化する彼のスタイルは、まさに古き怪盗。ダークかつダンディ。
 とても、とても格好よい。
 一方、ギター弾きの浅野の人生の方も、波乱万丈だ。
 実家である旧家が斜陽し、ギター弾きとして大阪へと行くその人生面に関すると、とてもよく描かれていて、一人の人間のドラマが、読み手の心を強く強くノックして止まない。
 そう、本書は、ある種、ゲーム性の濃い本格ミステリではあるが、それは表層で、芯には、濃い動機が、落ち着くことなく躍動している。そんな作品だ。
 いや、結末で戦わせる論争を見る限り、やはりゲーム性が高い作品とももちろん取れる。
 しかし、結末を迎えるまでに描きこまれた細井と浅野の生き様は、昨今のミステリには見られないほど、熱い息吹きが芽吹いている!
 そう、本書は若者の人生白書。
 熱い熱い青春小説なのだ。

 しかし、作者は、よほど本格推理を愛して止まないのだろう。  密室トリックのアイデアが、とても優れており、さらにラストの推理の反転のさせ方に関すると、ロジックの武者という印象を私へと植えつけた。
 そして、真実(事件の真相)は「神、そらにしろしめす。」

 神のみぞ知ると。

 そして、女性探偵妙子は、死者の声を聞こうと、黒い手帳へと耳を傾ける。
 そんなメタ性まで含んだ洒落た作品。
 最後の「ロバート・ブラウニング」の春の朝という詩を導入した点もオシャレだし、本格推理を熱く語るシーンにもグッと来るものが!

「君はだいぶ、新思考法にかぶれてしまったようだね」と、新思考法で謎を解く妙子に反論を行う細井の弟の真二(頭脳派だが、どちらかというと、ワトソン役)。
 その新思考法は興味深く作中で存在感を示す。
「推理小説も象徴詩も補完的参加性が高いのでクールだ」と(またしても格好よく)説く新思考法の立役者であるマクルーハンを真二は例題に挙げると、さらに「妙子の水平垂直の論理展開」と持ち出す彼に対し、妙子の方は、「象徴詩と推理小説は、宿命的に相容れない性格のようよ」と自説を提示。

「確かに、自殺か他殺かをはっきり決める証拠が何一つないものね。推理小説として完成させるために、どうしても結末を一つにして、二通りの解釈を最後には一本にまとめなければならない。
 先ほどのあざなえる縄の例でいうなら、二本の紐を縒り合わせて作った縄と見えたものが、実は一本の紐を二つ折りにして編んであったというわけだ。
 これなら、どちらの解釈をたどって行っても結末では必ず同じ解決点で合致するわけだろう。最後まで切れたままでは、都合が悪いね」

 素晴らしい(レトリック感覚)。昨今の「乱歩賞」受賞作群とは、明らかに何かが違う。≪文学の香り、感触。総じて言葉が格好よい。最近の軽めの本格ミステリ群にも見られない衒学趣味は美味!≫

 そう、作者は、推理小説及び推理界全体が、この時点(1970年)で見通せていたということだ。
 その視覚の広さは、見通しの良さを裏づけ、結果、新思考法という理論面まで、小説の枠内に、新しい試みを投入している。
 それでいて、輪郭は社会派だ。
 何故なら本書は、司会者が、謎の密室死を遂げるという、時事風俗、しかも当時の流行の先端である芸能界(本書では、主な舞台は、ステージ・ショーの世界)を舞台とした物語であるのだから。
 きっと、煌びやかな作品と評されたに違いない。しかし、ギター弾きの浅野は、昨今の若者バンドマンのようにチャラチャラはしていない。
 純粋にギターを愛する一人の若者。さらに等身大で必死に生きようとする姿がここには描かれている為に、単なる記号的な人物が右往左往する本格推理小説の枠を、充分に突破しているといえる。

 しかも、人物達の吐く台詞が、何とも男らしく格好がよいではないか!

「俺は、テレビアナウンサーが志望だった。しかし、その正当なコースが閉ざされたとしても決して落胆するには及ばない。
 しかし、フリーの司会者として一人前になれば、テレビ界でも縦横に腕が振るえるよ。いや、フリーの方が、誰からの束縛もなしに、才能を発揮出来るというものだ。アメリカの事情を考えてみれば、よく判る。むしろ司会者一人の名声と手腕で番組を支えている例が沢山ある。日本のテレビ界も、将来はきっとそうなるよ」

「俺は関西で一通りの修行を終えてから、東京の本舞台に乗り出す決心だがね、危険は覚悟のうえさ。頼れるのは自分だけ。という一匹狼の世界だよ。つまずいて道を踏み外したとしても、抱き上げてくれる人はいないだろう。俺がこれから歩むのは細い細い綱のような一本の道なんだ。だから俺は、芸名を細井道夫に決めたよ」

「お兄さんの心境に対する私とあなたの先入観念は、陰と陽との正反対に立っているんです。つまり私は陰の立場から眺め、当然、自殺と信じた」〜「もしかしたら、私から離れていた一年間のうちに、お兄さんの内部には、百八十度の転換が起こっていたのではないでしょうか。もし陰性の人間が、完全陽転していたとしたら、これは大変な結果を引き起こしたわけですよ」


 無論、難点もある。浅野が亡くなる際に飲んだ酒。これは推理ミスだ。
 何故か?
 ある案の実演のために彼は酒を飲むが、普通なら、必ずその中身を確認するはずだ。
 確認もせずに飲んでしまうとはとても思えない……。ここは破たんしている。
 例えば、≪改良案を挙げるとするならば≫せめて、その事件に関与したAもあらかじめ解毒剤を飲んでおいてから酒を飲む。
 あるいは、浅野が、極度の(何かの)XXXXXを持つ人間で、(Aが飲んで、お前は、後で飲めと、自分のみ飲むところを見せた後で)浅野がXXXXーだと思って飲んでみると、成分に、自身のXXXXXXXを引き出す物質が混入されていたばかりに、結果、アXXXーによるXXXX死に到ってしまった。
 そう設定を補強すれば、論理的欠陥は、消せるとは思う。

 しかし、全体的に読ませる力を存分に持つ推理小説であった!
 表層は、華やかでも、芯は、骨太な本格推理。
 作者のロジック。トリック。そして筆力に、大いに感心させられたミステリーの傑作、ここにあり!(2006/11)



 
 
「齟齬」 前田朋子 前田朋子ミステリー文庫 (2006/12/15・560円)

 和歌山県高野龍神スカイラインで事故死したドライバーの打ちかけた携帯メールには「龍神に殺される」という文字が遺されていた!?
 一方、四十歳を前にした高校のクラスメイトの亜佐美、麗子、珠代たちは、和歌山県の龍神村に買ったエッセイスト亜佐美の別荘で五年ぶりの再会を果たした。
 医者を夫に持つ麗子は、亜佐美の自由に嫉妬し、珠代は、亜佐美、麗子の暮らしぶりに嫉妬をし、一番セレブな暮らしをしている亜佐美をも、業界の苦労を知らない二人に対して不満を抱えていた。
 三者の間に燃え上がる嫉妬の炎。
 それぞれの心のすれ違い。つまり「齟齬」を題材とした、心理サスペンス!

 「前田朋子ミステリー文庫」第三弾。
 主婦の心の闇。それが本作のテーマかもしれない。一見華やかに見える姿、形。その裏に潜む心の闇を、決して重い筆遣いで綴るのではなく、軽快なタッチで綴って層を成す。
 それが本作の人間の描き方だ。
 無論、これまでの前田ミステリーにもその傾向はあった。しかし、本作は顕著なまでにその部分が特化されており、一つの前田的文体として、体を成している。

 そのせいか、いつもより女性の描き方の肌理が細かく、生活の隙間に溜まる垢のような部分までもが活字化されている。
 それは、おんなの情念という言葉で言い得るのかもしれないが、小説化されたものを読むのも、心理の勉強となることだろう。

 リーダビリティも悪くなく、読みやすさは本書においても健在だ。
 さて、女性心理を基軸とした、サスペンス。それに止まる作品なのか?
 その問題について、少し付記しておきたい。

 確かに本作は、これまでの前田ミステリーの中では本格色は、薄い。
 しかし、ロジック。
 その要所は、死守されていた。
 それは、幾つかのピースが散りばめられていて、その伏線たちを繋ぐと、一つの絵となるお約束。
 伏線の数も、これまでの前田ミステリーの中では、少ない部類に入るのは否めないが、「携帯メール」「謎の手紙」「ニセクロハツという名の毒入り茸」「祠の前を過ぎる人物」「乾燥サナギ」など、特に「ニセクロハツ」と「乾燥サナギ」を小道具として用いた点は、ミステリーの創意工夫度において、目新しさを感じさせてくれる!

 そう、小道具に、ちょっと風変わりな物を起用、配置させるのは、推理小説において、技術性があると、評価される暗黙の約束ごとなのだから。

 さて、エッセイスト亜佐美の別荘にて、龍神に纏わる手紙とニセクロハツを届けた人物は誰なのか?
 それを推理する名探偵。
 それは、あなただ!(2007/1)


 
 
「時を巡る肖像」 柄刀一 実業之日本社(2006/11・1785円) 0000(4,4)

 イタリア帰りの絵画修復士「御倉瞬介」による、名画を題材とした絵画ミステリー!
 2006年刊行。「ピカソの空白」「金蓉の前の二人」「遺影、デルフトの眺望」「モネの赤い睡蓮」「デューラーの瞳」「時を巡る肖像」計六編を収録。

 短編「ピカソの空白」において、柄刀氏は、ソファー位置から目撃した人物の位置について検証するというミステリーの命題を、作中人物において論理談議させているが、部屋の向こうに鏡を置いていて、実際に通り過ぎた場所は違う。
 という結論を一度は用意した。しかし、柄刀一という男はそれで満足しない。
 つまり、過去の(トリック、ロジック、展開)データに対し(優等生の如く「拝啓、先達さま」と手を上げて)一点以上の創意工夫をせねば気のすまない本格狂の騎士なのだ。

 無論、原理を聞いて「なるほど」と感心はしてしまう。ただ考えてみると「濡れていたX」という点には疑問を感じないこともないが。そこを寝起きという論理で補強されているので、もうこの辺で、揚げ足を取るのはやめにした。
 そして本書で柄刀氏は実験をしている。
 それは、絵画を取り上げながら、犯罪者の心理をも説明する点だろうか。

「ピカソは恐らく、若くして虚無感を味わったはずだ。呆気なくこの世界を描かせてくれる自分の才能に対して。それを充分わかっていないのに、感嘆の声をあげる鑑賞者に対して。描ききることは無意味に思えた。 懊悩 〜結局、ピカソは、余白を活かす道に覚醒したのだ。リアルな写実として描ききれない方法の選択。空白による構成だな」「ピカソの絵に増えていく描かれない部分」「ピカソは説法の形を見つけたのだ。ピカソの絵にある空白は、彼のもどかしい悲しみであり、救いでもあるのだ。天才の孤独を噛み締める一方、ピカソはしかし、楽にもなっただろう。同じようにX氏(本短編の犯罪者)も大きな境地に立つために、Xへ入った」

 と、犯罪者の心理を、ピカソの悲しみと救いの象徴と解く(柄刀観の)空白の解釈と照らし合わせながら紐解いていく。
 この犯罪心理の換骨とも呼ぶべき手法を本書にて用いた点は、これまでの柄刀一とは明らかに違う作風だろうか。
 いや、それに近い技法を使うことはあった。しかし、本書は全編絵画を主題とした短編集という企画。それだけに、絵画も、心理の紐解きも、繊細に書き込んでいる。

 ただ、何故に柄刀一の作品は、脳を刺激しても、この胸に残らないのか?
 理屈……それが先行し過ぎているのかもしれない(今読書中の「容疑者Xの献身」を読みながら、東野圭吾氏の創作テクニックの高さに圧巻……トリックの工夫度は、柄刀一の方が高い。しかし、言葉の構成、配置、人物の動向の見せ方、とにかく東野圭吾氏は、一部分においては、コアな作家には勝てないが、その守備範囲の広さにおいて、非常にテクニカルかつ人間ドラマ、そしてストーリーティーリングが上手い!)。

 人は、理屈に理屈を重ねて積み上げた物語を前に、ページの持つ肌触りと言えばよいか、その無機質な肌触りに体温が冷えることがある。
 結果、感情が停止し、ただ活字を追う作業という状態に入る。
 そして、名探偵の解決で幕。

 そうなのだ、人間は、感情に起伏を与えてくれる、変化に富んだ作品に惹かれるものだ。
 そうなると、安楽椅子探偵は、その読み方から、面白みに欠ける。
 しかし、本格推理は伝統芸能。
 その芸を死守していけばいいのだ。
 読者を満たすストーリーは、他の書き手に任せ、柄刀一は、トリック街道を行けばいい。

 本格の神に選ばれた本格界の懐刀!
 自身のスタイルに、今後さまざまな技法を取り込んで、上手くなっていく作家のはずだ。
 柄刀一という推理作家は!(2007/1)


 
 
 
「容疑者召慮タ函東野圭吾 文藝春秋 (2005/8/25) 00000

 「第134回直木賞」受賞作。
 「第6回本格ミステリ大賞」受賞作。
 「本格ミステリ・ベスト10 (2005)」第一位。「週刊文春 傑作ミステリーベスト10」第一位。『このミステリーがすごい!2006年版』第一位。


 二階堂黎人という作家がいる。現在の私は東野圭吾氏よりも、二階堂氏にシンパシーを感じているため、この05〜06年度のチョー話題作を読むまでは(二階堂氏の主張である)本書は「本格」では無いという論に疑いさえも抱いてはいなかった。
 しかし、本書を読み、東野圭吾氏とは何という巧みな書き手であろうと感嘆してしまった。
 そう、推理小説のテクニックが巧みなのだ。おそらく二階堂黎人氏を本書では超えていると予見した。
 以前読んだ「ある閉ざされた雪の山荘で」とかは、本格ミステリー作家と同等のレベルと仮定すれば、本書は、技量の宝庫だ。
 一見、人間ドラマに見える。いや、99%人間ドラマの小説というのも事実だ。
 まったく、この物語は何て残酷な物語なんだと、反吐が出そうになった。
 誰が残酷なのか。無論、作者だ。
 世の中には残虐な殺人も起きることがある。しかし、本書の石神のような犯罪者はそうそう出ないだろう。
 何故か。彼は論理に生き、論理に死す。
 本書の中で探偵ガリレオこと湯川がいうように「殺人で苦痛を逃れるのは合理的ではない。殺人によってさらに別の苦痛を抱え込むことになるからだ。石神はそんな愚かなことはしない。逆に論理的でありさえすれば何でも成し遂げられる」

 容疑者召任△詒爐蓮⇒由なき殺人などに手を出さない。反対に、理由あっても手を出さぬことは湯川の上記の言葉で証明済みであろう。
 では、何故に彼は容疑者召箸覆辰燭里?その理由に涙するのがこの物語の意図するところだ。(即ち、醍醐味)
 しかし、それだけなら、似た犯罪ものは多くある。しかし、彼の人生、生涯に、まったく瑕が無い。

 百年に一度の逸材と言われたほどの数学者であった彼が、理由あって現在は高校の数学教師をしている……。
 そんなクソ真面目どころか、すべての犯罪者の犯罪を看破し、証明をしてしまうような天才的な男。ある意味、名探偵のような男を、作者東野圭吾氏は容疑者召箸靴討靴泙辰拭帖帖

 そう、悪業の結果、裁かれた者ならわかる。または、まったく人間の背景を描かないままに殺害されてしまうミステリーの遺体役などなら、読者は感情移入も何もする前に亡くなってしまうので、その小説の文体いかんでは、胸が痛む前に、探偵に感情移入をしてしまい、謎解きはどうなる?
 そこに読者の神経は注がれる。
 しかし、作者は、容疑者召髻¬消議綸鮴遒砲茲辰督匹さ佑瓩気擦襪海箸砲茲辰董皮膚の皮(かさぶた)を一枚一枚めくるように痛みを描いていく。無論、感情言語がバンバン出てくる文学作品のような直接的な言語アプローチではなく、名探偵と容疑者召箸、相手の一挙手一投足を観察しながら、蚊のなくような静かな物腰で腹を探り合う。

 そう、本書は、ある意味、(真面目な男への)イジメであり、親友(石神の親友である湯川)も同じく傷を抱える物語であろう。
 だから残酷なのだ。
 残酷小説。
 そう、正道を歩いてきた人間が、チェック・メイトされるさまを、誰が気持ちいいと思うだろう。

 しかし、本事件は、石神の方程式なのだ。ゆえに、彼を裁くことは、裁判官でも難しい。
 それが石神の考えた方程式だ。
 つまり(推理面において)作者がやっているのは、犯罪小説の先達への挨拶。
 しかも一級の本格推理の達人への!

 P211に「だって、まだハルカには話さない方がいいって石神さんが」「うん、そうだったね。でも、いよいよ話してもらうことになった」

 この映画館に行った日の件でのやり取りのシーンを見た時。
 この箇所は、森博嗣に挑戦していると思った。
 数学的なミステリを武器にしている森博嗣。まったくスタイルの違う書き手ながら、この映画館に関する石神の公式は、単なるトリックの域ではないと思った。結果は単純なものだったが、この時間差証言というテクニックは、エラリークィーン級の繊細な技としか思えない。

 そう、私の感じる二階堂黎人氏へのシンパシーは、背景なのだ。クィーンやカーへの。
 しかし、東野圭吾という作家は、これほどまでに高等なカーブ・ボールを、さらりと投げてくれる。
 これが美しき公式でなくて一体、何であろう!

 石神自身も「数学は美しい」と言っている。しかし、それと同等の美が彼の人生観を新しく支配した。
 そう考えると彼は、数学に生き、数学と共に死んでいく。
 そうも考えられると思う。

 二階堂氏は本書の質は認める反面「伏線」が弱い部分があり、読者にヒントを提示し切れていない点において、本格ではないと主張された。
 そこで私は考える。

 実は、この物語は、ある理由から、あえてそうしたのではないかと。
 本書のテーマは、頭のよい人間を騙すことにある。
 となると、頭のよい人間に簡単にわかってもらっては困ると意図から、小粒な伏線(つまり主眼から遠景に位置するわかりづらい、本当にわかりづらい伏線の伏線)を用意したのではないかと?(伏線を見て、そこから、さらに、その意味するところとはという推理が必要)
 それは、名探偵「湯川」の存在に起因するという事だろう。

 細かい点を拾うと、実は湯川は、石神のいう「歯車」という言葉によって、彼の方程式を見透かしたのだ。
 湯川はいう。
「石神の試験問題の作り方は、思い込みによる盲点をつく。幾何の問題にみせかけて、実は関数の問題であるとか。この問題も焦点は 〜 と見せかけて 〜」

 盲点。歯車。そして、本書五ページの中に、(最後に明かされる)石神方程式の伏線たる伏線が「盲点」「歯車」同様に、単語として登場している。
 しかし、本格ミステリーの歴史上、そのやり方はアンフェアだと言われても仕方がないだろう。

 もう少し解決偏までに触れなければならない情報は、提示されなければならない。
 そう、そこだけを見ると、二階堂氏の主張は正しい。
 しかし、本書にはさらに大きな命題があり、(しかもおそらく東野氏も計算に入れて配置したと思われる)伏線の伏線をも、伏線と認識する者に向けた伏線とも、考えられないことはないのだ。
 そう、ミステリーの方程式としては、アンフェアだが、本書の論理枠の中では通用するとも取れないことはない。
 上記した通り、湯川が、天才的な名探偵ゆえに、湯川に簡単に見抜けてしまうような伏線とは、安易にさせられなかったと。
 無論、読者だけに提示すればいいじゃないかという論もあるだろう。
 しかし、意外とそれも難しいと、本書を読んで思った。それを入れる隙間。
 それが、上手く見当たらないからだ。
 つまり、本書には隙がない。遊びがない。遊びのような台詞はある。しかし、すべて作者の計算によって書かれているゆえ、本書の伏線を強化するのも一技量いるかもしれない……。

 ひょっとすると東野氏は、本格とは、探偵と、読者とが、同等の情報を得てこそという枷をも気にした結果かもしれない?

 湯川が天才ゆえに、難しい伏線としたと論立てる私の読み、さて、どれだけの信憑性があるだろう?

 しかし、推理小説として、技量の宝庫のような作品であるという認識は変わらない。
 隅田川沿い(新大橋)の景色の中にある最大の伏線、映画の半券、電気コードのディティール、新しい自転車でなければならなかった理由、発見時にパンクしていた理由、手の指紋は消されていた反面、自転車に指紋のみ残されていた理由、石神が公衆電話を使う理由、二つの駅、レンタル・ルームの時刻の理由。
 これらの伏線は、本格ミステリーとして一級の伏線(即ち「論理」)だ!(公衆電話利用の理由のみ、ミステリーにおいて多々見られるために、一級には届かないものの)
 これだけひねりの効いた理由(ロジック)を考えられるのは、作者の(本格)手腕に他ならない!

 しかし、石神に対して、思うことはある。
 もっと、別の方法はなかったのか!
 しかし、彼は、あえて十字架を背負ったのだ。
 それは、結局は、心の問題。
 揺らぎの問題。
 物理的な理由を枷にして、自身の公式を死ぬまで貫こうとした数学者の美学と破たんが、ここにある!

 石神という男の献身。
 この男の愛と悲しみの方程式は、当分、忘れられそうにない……。(涙
(2007/1)


 
 



 
 



 
 



 
 




 
 


2月書評





2月 



 
 



 
 
 
「科戸の風の天の八重雲」 加門七海 朝日ソノラマ (2004/2/29・1000円) 0000(4,6)

 長野県の禁忌の山へと踏み入れ、「媛神」に憑依された十朱春夫。
 彼は、「媛神」の命ずるままに、長野県の「戸隠連峰」にある「戸隠山」の山頂に封印された戸を開けるために、山頂を目指す。
 しかし、それにストップをかける修験者の澄影。神を封じた山を守る御室忠行。
 さらにゲイバーで働く裏綯い師・繰羽加賀彦と、フリーライターで気綯い師の羽鳥暁彦も参戦して、神の山を舞台に、攻防戦が開始された。

 背景にある日本の神の戦い、加門七海の伝奇小説が、ここに火蓋を切る。

 2004年刊行。
 
 加門七海の小説には、「神道」の醍醐味が書かれている。
 「古事記」の神々が登場。しかも、それが噛ませ犬程度の情報量ではなく、専門的な書き込みが成されているのだ。
 ゆえに、日本神話ファンにしてみると、香ばしい作品と、頬擦りしたくなる!
 
 しかし、何だろう?
 そう、この作者からは、神々への尊敬心、愛が感じられるのだ。
 神を単なる題材として描いていない。作者は古代神を愛しているに違いない。

 だから、神々の登場シーンには、神秘性が溢れている。
 いや、神との戦いシーンは、二流アクション小説以上の手応えを感じられなかったが、非常に繊細に神を扱うシーンも多く、加門七海の神の描写からは、ある種の美学を私は感じてしまった。

 美しい。

 しかし、キャラクターを動かすシーンは、どうもリズムが悪い気がしてならない……。
 どうでもいい(若者)会話も多く、無駄なシーンも多い……とは思うものの、神話、神道、修験道など、専門的な書き込みシーンとなると、筆に脂(?)が乗る!

 ご自身の(神話)知識、当時の服飾を初め、時代考証が、それはそれは徹底しているので、作中にて、それらが華やかに昇華している点は、本作そして作者の武器と呼んでいいと思う。
 そう、この作者は、自身のスタイルを確立させているのだ。
 よって、その神話をベースに、山に登り、封印の戸を開くだけの話を、ここまで読ませるものに仕上げることに成功している。
 つまり、それぐらいディティールの書き込みが濃く、物語に説得力を持たせていると言えるだろう。

 もちろん、神の化身たちがが暴れるシーンに関すると、少々安っぽい気がするが、古代書の記述に忠実な点が、物語の屋台骨を強く支えているのは事実だ。

 戦う(アクション)という方法には、個性を見出せなかったものの(誰もがやっているので)、神々の逸話や、伝承。
 その専門性に関すると、かなり高いレベルの知的興奮を喚起させてくれた魅惑的な一冊。

〜私好みの良作です!〜(2007/2)

(最後がお約束通りの戦闘という展開にさえならなければ、本当にグー!)


 
 
 
「10センチの空」 浅暮三文 徳間書店 (2003/12/31・1200円) 0000

 就職活動中の大学生川原敏也は、声優である夏野めぐみのラジオを聴いているうちに、十センチだけ、空が飛べるようになった(十四年ぶりに)。さらに、彼は、十四年前へとタイムス・リップしてしまったのだ!
 何故、彼は、空が飛べるようになったのか?
 実は、この特殊能力は、当時、東京から岡山へと越してきていた春日少年から、分け与えられた能力であるのだ。
 しかし、春日少年との約束を果たせぬままに、春日君は他界。
 ゆえに、十四年前へとやってきた敏也は、今こそ、その約束を果たさねばと意を決する!

 2003年刊行。
 (分野として、ファンタジー系本格ミステリー作品でメフィスト賞の受賞歴のある)ミステリー作家浅暮三文氏が、愛すべき読者へと贈るクリスマス・プレゼント企画本!

 さわやかなタッチにて綴られた春風のような文体。
 軽快さのなかに、著者の優しさが込められているようで、どこか甘酸っぱく、よって、ミステリーというよりは、本作の分野は(タイム・スリップ)青春小説だ!

 そう、本書は、青春小説であるのだ。しかし、メフィ賞作家「浅暮三文」という看板を背負っての執筆のせいか、叙述トリックだけは、(お約束の如く)作中に導入している。
 そして、その隠された叙述(即ち、伏せられた謎)とは、敏也がタイムスリップをしてしまう際の引き鉄。
 そうとだけ言っておこう。

 自転車?ラジオ?ビートルズの「フリー・アズ・ア・バード」?呪文?
 ある一つの真相が、最後まで伏せられていて、彼は(上記のピースを元に)謎を解こうと、推理へと取り組む。
 前半部は、やや盛り上がりに欠ける反面、謎解き箇所を導入した後半にて、物語の力は、やや盛り返しを見せてくれ(無論、それほどのコアな謎解きではないが)エンターティーメント力を見せてくれている。

 しかし、誰しもが懐古する気持ち。
 (友情とはいえ)甘みと酸味を交えながら伝わってくる作風には、筆の力を感じた!(特に夏野めぐみのDJのシーンに味あり!)

 よって、本書は、優しい読み物として、子供たちにオススメできる(子供向けでも毒性の濃い麻耶雄嵩氏の「神様ゲーム」のような作風なら、影響が心配になるが、本書は、薬だ)。
 よって、子供向けミステリのお手本的な作品として私は把握した!

 「十センチだけ飛べる」
 その非現実性に首を傾げてしまうよりも、本書の柔らかい空気感にてやんわりとした気持ちに浸かってみるのも、時にはいいのではないだろうか。

 ファンタジスタ浅暮三文。
 本書は、氏からの贈答品ですぞ!

 〜空を飛びたい!〜(2007/2)


 
 
 
「マジカルストーンを探せ!」 関田涙 青い鳥文庫 (2006/10/15・609円) 0000(4,2)

 空手の得意な小学生の朝丘日向は、日の石を手に入れた直後、夢の調査官ピエール正夢から声をかけられた。彼曰く「あなたは紛失中の月の石を探す資格を与えられた」と。
 石には七種あり、今は日の石と月の石しか発見されていないらしい。その二つの石は、人の記憶の欠片を集めて夢を作るマジカルストーンだと。
 しかし、月の石が隕石として落下し、行方不明となったので、月の石を失った日の石は、夢を作る際、バランスを欠き、夢を作る機能に(フリーズや夢から戻れない人が出たりと)不具合が出て夢の調査官としては困っているのだと。

 さて、日向は、月の石を探すことができるのか?

 第28回メフィスト賞作家関田涙氏の贈る児童向けファンタジー!(メフィ賞作家が青い鳥文庫文庫に執筆するのは二人目)

 関田涙。この名前を聞いて、やはり私の食指は動いた。
 そして、私の読みは正解。児童書ながら、本書は優れた暗号ミステリーだ!

 同誕生日なせいか、私は関田さんにシンパシーを抱いている一人だが(同じ誕生日だと言うことは、関田さんのサイトを通じて、ご本人から教えていただきました)、それ以上に、本格ミステリーのクリエイト力に、私は関心を抱いている。

 今回も、迷路(島の道順)を登場させ、それが何かを見立てているという推理における「コード」を仕込み、面白い見立てを立案されていた。(無論、前例はあるが、青い鳥文庫で行った点が斬新)

 そして、特に(コード名)「見立て」において、優れたアイデアが、ブロック型の宝の地図だろう。
 幾つものブロックが十字を象るように並び、その十字が二つ存在。
 計四ヶ所に旗が立てられていて、その上に「海賊」や「鳥居」のような図(マーク)が描かれている。
 これを元に、月の石を探すのだ。(月の石を拾ったとあるホテル社長が、その月の石を一般人に探させる大イベントを開催)

 さて、そのブロックを積んで形成された二つの十字は何を見立てたものなのか?
 そして、それを探るヒントである旗印は何を表しているのか?
 このアイデアは、本格ミステリーの「見立て」としてもなかなか高度で、本格の歴史を踏まえ、書籍を多読してこられた(+アイデアマンである)関田さんならではのユニークな発想だと、私は感心してしまった。(さすが、関田さん!)

 十七文字の暗号も面白いが、とにかく、最後の「見立て」を味わうのが、本書の(ミステリー的な読み方における)醍醐味だ。

 そして、ワクワクさせてくれる月と日の石に纏わるエピソード。
 その設定のところも、夢を作る仮説として、工夫が成されており、なかなか面白い!

 パズラー関田涙氏が、(殺人事件抜きの)児童書を手掛けたせいか、ふっと、筆名であられる「涙」の文字が、「笑」の字に映り(見間違え)そうになった、暗号系ファンタジー小説!

 作者は、児童書を執筆される時、関田笑となり、即ち、二つの顔を持つ男(涙と笑の二面相)へと、変異されているのかもしれない!?(2007/2)


 
 
 
「超短編小説・世界篇(2)」  ロバート・シャパード、ジェームズ・トーマス(柴田元幸・訳) 文春文庫 (1994/10/10・705円) 0000

 二十世紀文学のビッグネーム達の書いた「ショートショート」60編を集めた全集。
 フランス、ドイツ、南米、アフリカ(他)。そして日本からは川端康成の作品が収録されている。
 まず冒頭の「落ちる娘」の不条理さと意外な話には度肝を抜かれた。それで本書を入手したのだが、読み進めていくうちに年代が古いせいか、新味を感じられない自分がいた。

 そう、「落ちる娘」の罠にはまってしまったようだ。

 作者のディーノ・ブッツァーティ(伊)の考えた「摩天楼」から落下する娘と、(捻りの効いた)時間との掛け合わせというアイデア。
 その斬新さに食指を動かされたのだが、二作目の「右翼手の死」「ブラックベリー」辺りまでは面白く読んだ。しかし、その後の大半の作品が単なるブラック・ジョークでの幕引きであったり、不条理な結末であったりとどこか消化不良感さを感じて仕方がない。(つまり、意外な結末がもう一つ喰い足りない)

 しかし原因は、日本には星新一がいたからだろう。

 この掌編の大家がその地を耕し、かつ後継者をも育て、小説誌にも「ショート・ショート」公募も設けるという業績を残したからこそ、私たちは目が肥えてしまったのだ。
 ゆえに、ここに収録されている年代的に旧式のショート・ショートでは何か物足りなさを感じてしょうがないのだ。

 そうなると講談社刊の「ショートショートの広場」シリーズを読まれた方が、「面白い!」と素直にコミットしていけるだろう。(その裏付けとして、新作は過去作を踏まえて誕生するものゆえん)

 しかし、面白みという視点だけから読めばそういう結論が出るが。
 世界の文学者たちが、一体どんな掌編小説を遺したのか?
 その興味と研究。いや、自分自身の好奇心に毛を生やし、本棚へと手を伸ばされるなら、是非オススメしたい!
 欲をいえば、もう少しその国々の土着性を表現していただきたかったが(枚数的に無理?)、どこか、国の特徴。思想、風習も読書中、体感できるショートショート集。
 日本の、しかも現代の作風にちょっと飽きてきた方にオススメです!(2007/2)

 後記。
  一方、私の方は、独自の掌編小説スタイル「スマート・スマート」の確立を目指していこうと思います!


 
 



 
 


3月書評





3月 



 
 



 
 
 
「甲賀忍法帖」 山田風太郎 角川書店 (2002/12/25・620円) 0000(4,8)

 「面白倶楽部」(光文社)に1958年12月号から翌11月号まで連載された忍法帖第一弾小説!

 山田風太郎は考えたのではないだろうか?
 自身の推理作家としての立脚点を。

 1947年(昭和22年)東京医学専門学校在学時に、雑誌「宝石」の懸賞小説入選。
 1949年(昭和24年)「眼中の悪魔」「虚像淫楽」にて探偵作家クラブ(現日本推理作家協会)賞を受賞。

 その後、他の推理作家とは違う独自の味、テイストを作品に盛り込むべく苦悶、葛藤した結果。
 本シリーズ「忍法帖」が誕生した。
 そう、私は推理の矢を入れてみる。

 そう、本書の根底には、乱歩達と同じ推理小説の造り(構造)が秘められているのだ。

 いや、謎÷推理=という公式、構成というよりは、匂いに近いか。

 事実、本書では、冒頭に配された謎を解いていくという作りではない。
 甲賀卍谷と、伊賀鍔隠れに潜む忍者達が決戦し、最後の勝者を決めるという対戦もの。その原型だ。

 よって、本作の醍醐味は、双方の技(忍術)。
 それを活字を通して体感することにあるだろう。
 そう、その点こそに本書の見せ場が隠されている。

 しかし、忍者同士の恋愛、友情、苦しみをも描かれているため、決して浅い話ではない。(やや劇画風な作風ではあるものの)

 それ以前に、文章の勇敢さ、元気さ、パワフルさ。
 忍法帖シリーズには、山田風ダンディズムが隠されている!

 私はそう読んだ。
 そして、文章も上手い!

 さて、忍者達が明るく逞しい者ばかりなせいか、悲哀感よりも、本作には、溌剌さが前面に溢れていると思われるものの、ちょっとこの物語は悲しすぎやしないだろうか?

 甲賀卍谷十人衆と、伊賀鍔隠れ十人衆。
 双方は、源平時代から数百年間。不倶戴天の敵同士であるという前提があり、しかし今は、服部半蔵の統制下にあり、和平を保つ状況ながら、そこで徳川の悪心が働いた。

 徳川三代目の座を受け継ぐ者は竹千代か、国千代か?
 そこで、甲賀と、伊賀を戦わせ、勝った方により、どちらかを選定するという悪心であった。
 そう、忍者達は利用されたのだ。
 結果、血みどろの戦いが繰り広げられることに!

 しかし、純粋に戦う彼等を見て、その家臣としての仕事を貫かんとする純粋さには打たれた。
 しかし、残酷な仕打ちだ。

 その徳川からの命令を素直に受けた服部半蔵も(苦しい立場であったとは察するものの)、忍者として男らしいとは、決して思えない。

 無論、歴史的な意図により、態度を硬化させねばならないのはわかる。しかし、私には、本書は、冷酷な物語としか捉えられなかった……。

 高みの見物という視点も、嫌らしいが、どうせなら、忍者ではなく、徳川に未だ(内心は)敵対する国の将。それら同士を対決(決闘)させる。
 そういう筋書きの方が、まだ意味があるように思えてならない。

 あるいは、戦いにもう一つ意味性を加え、勝った忍者派閥の方には、繁栄を約束してやるとか。

 いや、情の面を論ずるのは、この辺りにして。

 見せ場である技に関すると、どの技も独創的で、魅せられたのは確かだ!
 特に体内へと槍を隠し持ち、喉から出し入れのできる忍者や、唾液を濃く大量に出して、敵をネバネバ(粘液)で捕らえる者。
 全身が吸盤になる者。
 体を溶かしたり戻したりする忍者などなど、論理的な側面もギリギリながら持ち合わせており、発想任せで発案した忍法の数々は、正直、個性を感じた!(科学の発達した現代の書き手なら、もっとテクニカルかつ独創的な技を生み出せそうだが)
(しかし、死んでも蘇る人物を登場させた点に関すると、反則だと思う……。唯一の救いはラストの手前で、その人物が死亡し、最後まで残った一人とはしなかった点だけは救い)

 と、ここ(忍法)が推理小説の流れを受け継いでいる点だろうか。

 そう、忍法の原型は、トリックだ。
 その(ミステリ的)トリックを、山田風太郎先達は、忍術・忍法という分野へとシフトすることによって、独自の世界を作り上げたのだ。
 よって、独自のフィールドを構築した当時としては、新進気鋭の文士!

 ゆえに、本格ミステリのトリックとしては「これは、実現不可能」と却下されてしまいそうなネタでも、「忍者」だから許せるという甘いジャッジを期待できたのだろう。

 そして、そういう、(山田先達のみに許された)特例地帯を存分に使って、作品を発表し続けた過程が、推理作家としての山田先達の作家道だったと、私は思ってしまう。(反面、独創系時代小説家としては、個性派に違いないはずだ!)

 論理面は三分、四分。に対し、発想は約七分にて忍術トリックを発案。  それが山田先達の方法論であったのではないかと?
 
 そうなのだ、それぐらい推理小説においてトリックの実現性というのは(雁字搦め、即ち)枷になるということなのだ。
 そして、それを本書が、逆に証明しているに違いないのだ!

 しかし、忍者ならば許すと、大半の読者は発想のみを評価し、いつしか論理性へのジャッジは忘れて、独創と発想面における山田ファンとなっていく。

 ふと、そういう過程が、「山田忍法帖」の成功の裏、つまり歴史には存在していたのではないかと、過去読み≪推理≫をしてしまった?
 
 そう、エラリー・クィーン等に影響を受けつつも、クィーンに代表される論理小説へと、山田先達は、背信したのだ。

 「論理」よりも、「面白み」こそ第一義としよう!

 きっと、そういう信念を打ちたて、創作してきた成果が、この忍法帖に違いない!

 しかし、物語として、まとめる力量、味。
 それは大成功している!
 そう、魅力的な構造を生み出し、作品化し、かつ成功させた功績は大きいに違いない!

 ラストにおける二つの派閥を超えた(悲しき)恋愛ドラマ。
 それが閉じられてしまうシーン。
 そこには、何とも物悲しく、郷愁に満ち溢れていて、まさしく本書は、悲しき忍者の物語。であった……。

 さて、伊賀、甲賀?
 勝者は、どちらの手に!?(2007/3)


 
 



 
 
 
「天帝のはしたなき果実」 古野まほろ 講談社 (2007/1/12・1150円) 00000(語彙の蔵人)

 古代ギリシアでは、哲学者が、文学者、医学者、科学者等をも兼ねていたと言われるが、昨今の文学界では、分野の小分け化が進み、それぞれの層が分離した状態で存在している。
 と私は思う。
 そして、各分野の文学賞にせよ、あるフォーマットが出来つつあり、過去の事例を参照に、選者も選考している様子だ。
 そんな中にあって、その垣根を飛び越える異端粒子的書き手が登場することがある。
 それが、「語彙の蔵人」と評したい第35回メフィスト賞受賞者「古野まほろ」氏だ!

 まず、私は、彼の読書傾向かつその(仰天級の)博学さに敬意を表したい!
 例えば、本書には、
「あんたの♭は皆、汚染された音」
「13のタンタンターンターン、全員の揃うところ、音の始末が滅茶苦茶。ここは臨機延長気味(フェルマータ)風にするんでしょう。同じとこTU.いきなり気合入れすぎ。陰にこもり物凄くじゃないんにゃから」
「縦の線(アイザック)揃えて。音程(ピッチ)が悪い」
「ヒトラー生誕前夜祭でフルヴェンが振った第九も、バイロイト音楽祭でフルヴェンが振った第九も、みんなお茶の間サイズになったという意味」

 というやり取りが書かれるが、音楽を少々齧った程度では、こんな言葉は出てこない。
 比較して申し訳ないが、(今、読書中の)最新の芥川賞受賞作「ひとり日和」(青山七恵)には、専門性の高い言葉がほぼ出てこないために、言葉の濃度の薄さを感じてならないが、古野まほろ氏の文章にはページをめくる度に、うなさられるものがあった。

 「♭が汚染された音」など、(ギターで)コードしか弾けない私にはいえぬ言葉だ。
 縦の線(アイザック)も揃えるという理論も解説できない。
 そして、彼にとって、第九は、一般市民の抱く以上の思い入れもあるのだろう。

 いや、彼は音楽に青春を費やしたという背景があるのだろう。それは想像だがわかる。しかし、本書が音楽小説なら、そこまで過大評価するほどでもないかもしれない(いや、それにしても音楽用語を詩的に活字化するセンスは、高いはず!)

 そう、本書は本格ミステリーだ。推理の器の上に盛った装飾。
 それにしても、これだけ衒学趣味を盛り込むとは、メフィスト賞一のレトリック・キング!
 (全メフィスト賞受賞作を読了している)私は確信した!

 そう、彼は、ただのミステリー作家ではない。古代ギリシアの哲学者の如く、オール・ジャンルに手を出さねば気がすまない、脳がヒートして止まない知的好奇心旺盛な知の武者なのだ。

 だから、彼の感心は、家族や、人間の日常にはない。
 だから、人間の描き方は、ある意味、浅いかもしれない?
 いや、哲学的には濃い。しかし、人間というのは、頭がいいとか、一面的では語れないのだ。
 だから芥川賞受賞作は「ひとり日和」(青山七恵)なのである(おそらく?)。

 難しい文章、レトリック、知識量は、圧倒的に(というか、これだけ盛り込む人も珍しいぐらい)古野まほろ氏は、読み手に対してこれでもか、これでもかという勢いで(知識+レトリックを)放射してくる。
 しかし、本で得た知識臭さがどうしても抜けないために(ご自身が体感してきた音楽のシーン以外は)実感に乏しいのも事実だ。

 「皇紀は三千国燐然」にせよ「近衛声明」にせよ、「九尾の狐」にせよ、本で得た知識という域を出ない、単に装飾(逸話も含む)として扱う単語も多い。

 それは、どこで推理できるかと言うと、本人の馴染みの度合いとでも言おうか。
 例えば、音楽(クラッシック)を語るシーンでは、徹底的にディティールが細かいのだ。
 さらに、音楽に対する思い入れが高いことが、その熱のある文章から感じ取れる。
 そして、無駄な言葉をそぎ落とし、要点を、学生語で表記している。
 これは、専門家しか出来ない表現だ。

 そう、隠語を操れる域にある。それが作者なのだ。
 では、皇紀や近衛が何故浅いかと言うと、その道のマニアなら、単語をさらに捻って語る気がするからだ。
 「♭が汚染された音」と彼が書くように、近衛のあの声明の日の第二ボタンは外れていたとか。(無論、真実は知らない)
 そう、マニアの中のマニアにしかわからないような表記にて。

 そう、専門を口にするとは、思う以上に難しいことだ。だから、古今東西のあらゆる知識をチャンポンの如くに小説という器の中へとぶち込んだ古野まほろ氏は、相当の知の巨人なのである。

 と、褒めモードになるとブレーキもかけるのが私の癖。途中で語りやめていた、だから芥川賞受賞作は「ひとり日和」の論理について、少し触れてみたい。

 「ひとり日和」と本書「天帝のはしたなき果実」は、同じ土俵で戦っても面白い。とは私は思う。繰り返すが、本書は、総合小説という側面を持っているために、芥川賞のノミネートもありだと思う。(これだけレトリックを連発しているのだから、当然ではないだろうか?)

 しかし、「芥川賞」に到る条件として、枚数、(文章は凄い反面)人間の描き方が一面的。人間の関係性を描く力、いや、その関心が低い。
 という理由を挙げられると思う。無論、首斬りを扱い、犯人をロジックで解明するという物語の持つ性質も、「芥川賞」には好まれまい。

 さて、上記を(ある選考)基準として、「ひとり日和」と本書「天帝のはしたなき果実」を比較すると、そう、「ひとり日和」はシンプル・イズ・ベスト!
 簡潔な表現にて綴る文体という作風であるという点以上に、人間の関係性。

 周囲や家族(この場合は親戚のおばあさん)との関係に焦点を当てて、その結びつきを描いている。そう、素の人間のあり方を。
 一方、本書「天帝のはしたなき果実」は、総じて「芸術史」マニアの標本のような作りだ。

 そう、青山氏の頭の中は、(無論、文学創作を意識する意もあって)人間関係のあり方、付き合い方を重視するという傾向がある一方、古野氏の頭の中は、美術全集、芸術全集。
 そう、人間という生物よりも、知の集積場のような場。そう「博物館」を自分の世界としている(本書から考察するに)と、私には思えてしようがないのだ。

 これだけの文学的才能(ここでいう文学は、文章の意味で、人間の見方、向き合い方、関係の築き方ではない)がありながら、芥川賞路線を目指さなかったのは、もったいない気がしないでもない。

 しかし、好きな傾向の書物が、古典以外は、本格ミステリーだったのだろう。
 どうしても、個人主義的な物の見方、(ライトノベルス的な)学生ノリは、隠そうとしても隠せない……(いや、私はこれも面白いと思うが!)。

 難しい言葉を羅列して、読みにくい。その意見も正論だろう。しかし、半分の正論なのだ。
 この書き方だから、他を圧倒する境地に立った。それは事実であるのだから。

 そして、このルビの交響曲も、作者の狙いに違いない。
 英語を用いるルビなら、時折見られる。しかし、彼のルビは、フランス語にドイツ語、時には(記憶では)ロシア語もあったように思われる。

 つまり、学がないと、書けない小説なのだ、本書は。
 さらに、面白日本語系ルビまであり、彼こそ、「新ルビ文学旗手」として、後世にて必ずや評価されるであろう傑物だ!(本書、一作以降、その才能が下降する可能性もあるが)

 (途中で放り投げたままの)「黒死館殺人事件」(小栗虫太郎)(既読の)「虚無への供物」(未読ながら、冒頭のみ斜め読みした経験あるために雰囲気はつかめている)「匣の中の失楽」の後継作に位置する作品であることはわかる。

 しかし、本書のルビ・ゴシックは、その総数において偉業の域ではないだろうか?
 記憶では、小松左京作「エスパイ」と比肩する?(いや、それ以上か?)無論、「黒死館殺人事件」も総数は凄い!

 ゆえに、今後、ルビ文学ミステリーは流行すると私は肌で感じた。

 さて、推理面はどうか。
 最終的には論理的解決を提示している。
 しかし、構成がややアンバランスだ。
 さらに、最終論理(解決)以外は、犯人を指摘するに足る証拠が弱い。
 つまり、エラリークィーンを横溝正史を、名探偵コナンが死守し、島田荘司がいうところの「高い確率で、そう印象を与える真相」
 その習得までは、もう一勉強がいるかもしれない。総合芸術の勉強は相当の域だが。推理面の。(繰り返すが、最終解決のロジックはグーだ!)

 では、どこが弱いか?

 まず、作中で、犯人は、XXを隠せた人物。
 あるペットを持ち込めた人物。XX服を用意できた人物。
 XとXがあると知る人物。
 XXの価値が分かる人物。
 XXを入手できた人物。
 ある文字が読める人物。
 XXに関係。
 XXXに造詣が深い。

 これらすべての条件に当てはまる人物であると定義するが、上記した全論理は、確定性が低い。
 島田荘司がいうように「高い論理的な印象」を与えるに到っていないのだ!

 例として私が裏返してみせよう。(文章には天才性を感じたが、推理面、構成面において、どうも凡人の私でも指摘できるようなので)

 犯人は、XXを隠せた=他の人物でも可能。
 あるペットを持ち込めた人物=他の人物でも可能。事前に持ち込みも可能。
 XX服を用意できた人物=館内に事前に隠しておけばよいのでは。
 XとXがあると知る人物=情報なら、CCDカメラなどでも仕掛けておいて、通信機能とセットにてその場所の映像程度なら確認できるのは?
 XXの価値が分かる人物=知らない振りをしているだけかもしれませんよ?
 XXを入手できた人物=共犯の可能性もあるし、事前にコピーも出来るのでは?
 ある文字が読める人物=そんな文字辞書があれば調べられるのでは?
 XXに関係=関係者でなくてもいい気が?
 XXXに造詣が深い=意外と、知っている人が多いかも?

 薫葉は、何て嫌な奴だ。なら、お前ならどうするか言ってみろ!

 そう、限定性を作るのです。
 絶対にそうでないという。
 例えば、カメラ撮影もできぬよう、全てチェックする=これでカメラの線は消える。(その程度の証拠は証拠リストには挙げないようにする)
 この知識を知らない人を除外=そういう限定性の低い論理は、初めから推理リストにはやはり入れない方が得策。
 もっと、物理的だったり、時間の限定される推理のみを例として、読者に提示するべきでしょう。

 そして、服を用意できなかったとするならば、その全情報を提示して、そこで、初めて、服はなかったから、ペイントで裸に服の絵を描いた。ゆえに、布ではなく、犯人は(ビジュアル)変そうトリックを使ったとか。
 そうやって、物理的に無いものは、無いとキッパリと提示する。(これぞ、消去法推理作成の論理と命名できるかも)

 私なら、上記のように補強するでしょう。

 そして、その推理も先にではなく、後に提示する。 
 しかし、ご安心くだされ、皆の衆。

 作者は、上記以外の小証拠以外に、「論理的な印象」を強く与える犯人推理の決定打を用意していた点には好感を抱いた!

 ならば、小局は、いいじゃん?
 そう思うかもしれない。

 しかし、本格推理において、美しい見せ方にこだわるならば、逆に配置すべきなのだ。
 最初に、上記した犯人は、XXを隠せ、あるペットを持ち込めて、XX服を用意できたという感じで。
 論理性の低い指摘をして、消去しては駄目なのではないだろうか?

 むしろ、それは単に疑問として挙げつつ(つまり、軽く触れる程度にしておいて)推理問答にまで発展させずに、最後にて決定打を打った後で、上記の「犯人は彼は、XXを隠せ、あるペットを持ち込め、XX服を用意できた〜 人物」という感じで、補強案として配置させれば、見せ方として、美しくなる。
 私はそう思うのである!

 そう、限定性の弱い証拠は(できる限り大きく取り扱わずに)、補強として扱うべきではないかと?
 無論、厳しい意見を言えば、最終解決も、本当はわからない。
 先ほど言ったように、カメラでも仕掛けておけば、某教室の貼り紙も、チェックできる人物もいるだろうし、そう、つまり、この
クローズドサークルにおいて、犯人を指摘するのは非常に難しいのだ。

 しかし、作者の最終提案は、高い論理的な印象を与えてくれたから、八割方、その人物以外に犯人はありえないと、読者は納得してくれるに違いない。(私自身も、七、八割納得すれば、必ず評価している)

 しかし、構成力は今後も上がっていくだろう。
 いや、それよりも作者は、今後、直木賞も夢ではない逸材ではないだろうか?

 とにかく芸術文化度の高い作品を書いて、ファンを獲得していく未来図を感じてしょうがない。

「愛器はTB06R−2GK。高機動型トロンボーン、ゲン、キリマ専用機や」

 トロンボーンをロボットに見立てる。
 この一語を挙げるだけでも、凄い表現力だと、汗が出てきそうになる!
 「音楽(ムズイーク)」「逢瀬(デュエット)」
 「性欲炸裂第一(せくしゃるだいなまいつなんばぁわん)
 「どっちかといえば朔太郎(バックアットザムーン)のくせに」

 新しい文学の鬼才到来!
 恐るべきルビ文学者が登場したものだ。

 「小学生の頃に文庫本に没頭していた。もちろん「月光ゲーム」である。もう百二十九回目だ」

 この一文にもひっくり返りそうになった。
 もしかすると、世に出ていなかった「論理の書」有栖川有栖作「月光ゲーム」の信者であったのか?

 (作中の言葉だが)これは作者のリアルな声なんだと思う。(無論読み返した回数こそ誇張であろうが)
 そう、エラリー・クィーンに酔いしれたパズルの国の住人の子孫。

 しかも、その新本格の仕掛け人である(元講談社ノベルス編集長)宇山日出臣が、デビューを推したと言われる最後の大型新人「古野まほろ」!

 二〇〇七年。
 新本格推理二十周年である今年。
 新しい新本格の星が登場した。

 星は一人ではなく、二名、三名いるのかもしれない?
 一九八七年。乱歩賞を最年少で受賞した石井敏弘氏。新本格推理の第一人者となった綾辻行人氏。推理界のクィーンの道をまい進中の宮部みゆき氏。

 三名の巨星が登場したように、そして、新本格の生みの片親(もう片親は島田荘司氏)の宇山日出臣氏の死と引き換えに現れた古野まほろ氏は、ただ者ではないだろう!

 そういえば小栗虫太郎先達の「黒死館殺人事件」は、乱歩の代役として執筆された名作だ。

 乱歩賞の灯火の斜陽する昨今。
 乱歩(賞)の代役として本書が登場したとするならば。

 この現象を前に、神がかりな臭いを感じ取ってしまうのは、私だけだろうか?

 そして、石井敏弘氏、綾辻行人氏、宮部みゆき女史がデビューして二十周年目である本年の九月頃、推理界を大きく俯瞰し、観察してみたいと私は思う。

 森博嗣の著作に(綾辻行人のデビュー作を皮切りに、森博嗣に到るまでの装丁家として有名であった辰巳氏亡き後も変わらず、白い装丁色で通してきた森博嗣氏の著作が、新年早々、「ηなのに夢のよう」にて、始めて黒い装丁にという!)異変が起こり、何の因果か、本書は、新本格の仕掛け人の(去年8月に亡くなられた)宇山日出臣氏の手掛けた遺作となり、推薦人が、まさに20年前の87年の乱歩賞時に涙を呑んだ有栖川有栖氏と、因縁の結実した奇書!

 まさに本書は、奇書である!
 (メフィ賞において)「コズミック」と双璧をなす「奇想交響曲」

 さぁ、書を捨てず、街に続く窓を閉じよう。
 すると、君の世界の前に、衒学の森が、一頁毎に、広がってくる!(2007/3)



 論理性の高いミステリーを紹介して欲しいと言われるなら、地元のインスペクターM邦訳集団の訳した「森本警部と二本の傘」は、オススメです!

 まさに、論理の煌き!傑作!(クィーン再来!?)
 た、ただし、文章面の完成度は、決して高くはないために、構成重視で読んでいただければ幸いです。
 翻訳集団の代表ともその件で話し合っていますが、修正するのは難しい……という結論が出たので、私は多くの方に薦められませんが(本読みは、うるさい輩が多いので)、しかし、構成の美しさ。それをわたしは、知ってほしい!

 そう、質の高い作品に触れると、他とどこが違うかよくわかるから。


 
 
 
「タイムスリップ水戸黄門」 鯨統一郎 講談社 (2006/11/8・840円) 0000(4,6)

 「やった、里見浩太郎のサインを持っている人はいても、本物の水戸黄門のサインを持っている人はいないよ!」

 現代では県知事にあたる徳川光圀(実は水戸藩は参勤交代を免除されたため江戸に常駐。これを水戸側は勝手に将軍を守護する役=将軍代理と公言したところから、副将軍の呼び名が付いたそうだ)が、女性の尻を追い回した挙げ句に、二十五世紀に存在する時空移動を管理する「統一執行部」所属の石野パインに救われた(彼は黄門配下の飛猿に相似)。
 そして、二人は、時空移動中、燃料補給を理由に、二十一世紀へ寄り道。
 そこで、渋谷の女子高生麓うらら(本シリーズのメイン・キャラ)と遭遇してしまう。

 彼女の友人たちと交流する中、サインペンでサインをする黄門(そのやり取りを本書評の冒頭に配置)であったが、現代に自分のそっくりな大臣がいることを知り、政界へと物申しに行く展開に。
 正確には、大臣が誘拐されたために、替え玉として、スカウトされた挙げ句、その後、急展開するというわけなのだが……!

 鬼才鯨統一郎の贈るタイムスリップ第四弾!

 読み始め、おやっと思った。以前は面白さが勝っていて、ページをめくる手に迷いはなかったが、最近、乱歩賞受賞作など、立て続けに硬質な文体を目にする機会が多くなったせいか、この鯨文体が、酷く味気なく感じてしまったのだ。軽いうえに、今回は、おバカ・トークも、減退。
 しかし、違う角度から、本書には大きく感銘させられてしまった。

 それが、政官財の癒着の論理。しかも、そこの部分は、かなり正確に、そして、真面目に綴られている。
 正統的社会派サスペンス。そう定義しても過言でないほど意義深い作品となっている点には、正直、驚かされてしまった。
 無論、表層は(いつもながらに)ジョーク色が濃い。人物間のやり取りは、鯨カラー健在で、お馬鹿な会話がてんこ盛り!
 そう、コミック的な読み物として、軽く読めるのが特徴だ。
 
 しかし、これだけ濃厚な政治問題を、真正面からぶった斬れる鯨統一郎の政界知識。ここには感心してしまった!
「まったく鯨さんは、勉強家だ!」と、己の無知さ加減が恥ずかしくなるほどだ。

 では、どんな風に、ディティール面が充実しているのか、少しだけ触れてみたい。

 本作では、水戸ー新潟間に、高速道路を建設する計画が持ち上がる。
 まず、国交省の諮問機関である審議会が行われるのだが、ここでは、国交省にて計画された計画が妥当か地域意見も考慮しつつ審議を行う。
 その後、閣議で、国交省事務次官も説明者として参加するなか、水越自動車道の可否。事務次官が、計画の全貌と調査結果と経緯の説明を行うなど、非常にこと細かく政治的手続きを記載している。 

 政治を扱う箇所に関すると、とても説明的であり、簡略的な記述という印象を受けはするが、これだけ勉強する知的行為、それを作家的努力と呼ぶべきだろう。
 さらに驚かされるのが、鯨統一郎による、国への提案ではないだろうか!

 その提案は、道路を造るという国側の常識案に、ある工夫を盛り込んではどうかと投げかける問題提起となっているのだが、それを国会にて、水戸黄門に言わしめたというストーリー・テーリングの上手さには、見事としか言いようがない。(その配合は、素人では出来ない産物だ!専門知識を自分の物にせぬ限りは)

 無論。その発想の蔵元は(道路問題に関心の低い平均的我々市民の見解の及ばぬ)どこぞの専門家の提案から、チョイスしてきたのかもしれない?
 あるいは、鯨さん独自の提案なのか?そこまで調べる術はない。

 しかし、切り口。
 そう水戸黄門の提案する、既存の道路に対し、もうワン・ポイントの新しい提案を盛り込み、日本中の道路に、ある物を設置しろという大胆発想!
 ここは、本書最大の読みどころといえるだろう!

 根底に、環境への愛と、多くの交通事故死者の回避を願う社会愛。
 それが込められている一作。(説得力を上げるために文体を重くすると評価度はグンと上がると思うが。つまり、社会派の書き手が書けば、評価される題材かつ魅力的な新提案に違いない!)

 私の胸には、何かが残った!(2007/3)


 
 
 
「ηなのに夢のよう」 森博嗣 講談社ノベルス (2007/1/11・\924) 0000(4,1)

 きっと森博嗣の規格と本格ミステリの規格との間に、ズレが生じてきたということなのだ。
 デビュー十一周年を迎える森博嗣氏は、初期の(新本格を継承発展させるという)作風から、自分らしい服装へと着替え、ライフ感溢るる作品を出版するというスタイルに変貌してきた。
 理屈をフィーリングでパッケージングし、テンポ良いイマドキの学生口調にて誌面を彩る群像劇。
 それが昨今の森博嗣の世界、文体だ。

 無論、公式や科学(数学)用語は、学生の会話に織り交ぜることによって要所にて披露。
 飽きさせない知的な読み物として、科学時代を生きる者達の好奇心をどこまでもくすぐってくれる!

 「φ」「θ」「τ」「ε」「λ」と関連してきた本Gシリーズの題名(ギリシャ文字)。
 そして「ηなのに夢のよう」で、Gシリーズは終了?するという。
 いや、シリーズは閉じても、森ワールドの住人達は相互にて繋がっているのだから、物語は終わらない様子だ。
 そして、永遠の怪盗?真賀田四季は、今後も森ワールドの中の黒幕として、影をちらつかせていくことだろう。

 事実、本シリーズには西之園萌絵、犀川創平、時に瀬在丸紅子、時に保呂草潤平が交差をし、シリーズ間には、橋が掛けられているのだから。
 つまりこれまでのS&Mシリーズ。Vシリーズ。四季四部作と地続きなのである。

 さて、本書は、奇妙な時期にある不思議な印を宿して刊行された新刊だ。
 まず、時期として、新本格二十周年である今年に刊行された現代新本格の代表者の新年第一作!
 そして、森博嗣氏のウェブ日記に記載されていたある記述。それが私は気に掛かるのだ。(その事は、森博嗣先生にもウェブを通じてお伝えした)

 下記。森博嗣の日記参照。
「『η(イータ)なのに夢のよう』の見本が届く。1年の最初の本が白い表紙でないのは、デビュー以来この本が初めて。そして、ノベルスでは黒は初めてだろう」

 そう記述されていた森博嗣氏の日記のその箇所に目が留まった私の脳裏に嫌な予感が走った。

 そう、それまでは「白い表紙」であった森博嗣氏の本が黒に染まった。
 しかも、新本格二十周年である今年の新年早々にである!

 そう、私の中に、「白と黒が裏返るという暗示だとしたら?」
 そんな予感が走ったのだ。

 それに説得力を与えるように、「島田荘司氏と共に、新本格を生んだ仕掛け人である宇山日出臣氏の訃報により、新本格は終わった」と、司凍季女史もおっしゃられていたが、もしや今年、かって、綾辻行人のデビューによって、社会派ミステリ主流の乱歩賞の時代が、新本格の時代に移行したように、そう、黒が白く裏返ったのとは反対で、今度は新本格という白い駒が、黒く裏返る暗示であるとしたら?

 ゆえに、本格の神は、現在の新本格の第一人者といっても過言ではない森博嗣氏の作品に、見えざる暗号として配置した?

 しかし、本書は、そこまでセンセーショナルな作品ではなかったが、気になる点が一点だけある。
 それは、解決が成されずに、三件の首吊り事件が処理されていることだ。
 いや、まったく論理的解明と犯人の指名を避けているわけではない。

 途中にて、ある仮説は述べてはいるのだが、最後は、その仮説で(おそらく)事件は成されたのだろうという、妙なぼかし方でピリオドが打たれている。

 これは、森博嗣の二心だと思う。
 一つは、ガチガチの本格からの脱出。そして実験。
 もう一つは、やはり本格推理小説への愛情の減退ではないかと。

 確かに事件を推理にて解決するというある種の公式のような様式美である推理小説を多作していると、よほどの推理狂でもなければ、いや、推理狂でももっと別のスタイルに浮気したくなるだろう。

 しかし、森博嗣氏の場合は、浮気ではなく、何か、そう、根底からスタイルを自分のライフ、感性の側へと引き寄せ、小説スタイルを、自己流の自分語りにしてしまいたい。
 そんな心理が隠れているような気がしてならない。

 しかし、それも面白いはずだ。
 バリバリの本格ではなくとも、学の蔵とも例えられる森博嗣のコトバには、知的な宝石箱の如くまだまだ新鮮なコトバが眠っているであろうから。

 これからは、トリックという観点からだけではなく、コトバの側から森博嗣を追いかけていけばいいのだ。

 そして、まだまだ謎の隠されている様子の四季という天才。
 それを追いかけるというスタンスで読んでいけば、きっと収穫はあるはず!

 今回も、萌絵の両親の死の真相に触れるシーンがあり、その謎は、今後明かされていく気配を残すGシリーズ最終章。

 新本格二十周年。白(本格)は黒(マイナー)へと裏返るとしても、森博嗣博士は、新しい服を着て、今後もマイ・ペースにて闊歩していくだろう。(あるいは、断筆もあるかもしれないが)

 新本格よ、お前は何処へ向かおうとしているのか?
 時代よ、お前は夜明けへと近付いているのか?

 そして、日はどこを次に照らすのだろう?

 時代よ、応えてくれ、時代よ!!(2007/3)


 
 



 
 


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